2008年10月09日

戸ノ下達也・長木誠司(編著)『総力戦と音楽文化──音と声の戦争』

戸ノ下達也・長木誠司(編著)『総力戦と音楽文化──音と声の戦争』、青弓社、2008年10月。

【目次】

序章
 戸ノ下達也/「戦争・メディア・音楽」のまなざし

第1部 音楽の総力戦
 高岡裕之/十五年戦争期の「国民音楽」
 古川隆久/流行歌と映画
 長木誠司/南方占領地域での日本による音楽普及工作

第2部 音楽の諸相
 熊沢彩子/日本人作曲家の「日本的」作曲──一九三〇年代の創作理念
 酒井健太郎/国際文化振興会の対外文化事業──芸能・音楽を用いた事業に注目して
 上田誠二/戦争と音感の社会史──国民学校と盲教育界を事例として
 武田康孝/ラジオ時代の洋楽文化──洋楽番組の形成過程と制作者の思想を中心に

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2006年12月08日

芦原義信『東京の美学──混沌と秩序』

東京の美学―混沌と秩序 芦原義信『東京の美学──混沌と秩序』、岩波新書 新赤版319、東京: 岩波書店、1994/1/20。

 「東京」という都市のあり方が、他都市と比較して語られる。結論的な一節として以下を引こう。
 パリやニューヨークを見たあと、やっぱり東京の良さは部分部分の良さであって全体性の良さではない。そうしてみれば今一段と部分を整備してゆくほかには日本の都市をよくしてゆく方法はないのではないかと、つくづく思わざるを得なかったのであった。これが、パリ、ニューヨーク、ワシントン、ラスベガスを回ったあとの東京へのメッセージであった。〔p.124〕
 実際に東京の街並みが「よく」ないか評価するのは、ある程度個人に委ねられるべきところだろう。一見したところでは「よい」ようなほかの都市も、住民にとっては不具合があることも考えられる。どっちもどっち。良し悪しとは無縁に、ただ多様なあり方のひとつとして、「東京」がある、と考えた方が、私にはすんなりくるのだが、いかがであろうか。


[目次]
 まえがき   i

第一章 日本人の空間意識   1
 (一)日本人はなぜ靴をぬぐのか   3
 (二)日本だけの都市風景   20
 (三)部分発想と全体発想   40
 (四)平等主義かアイデンティティーか   54

第二章 東京の光と影   65
 (一)街の観察   67
 (二)東京の土地問題と交通渋滞   87
 (三)パリ、ニューヨーク、ワシントン、ラスベガスから東京を見る   100

第三章 東京の処方箋   125
 (一)公共空間の象徴性   127
 (二)住まいの充実   135
 (三)都市のアメニティー   150
     ――逃避的・中間的・積極的――
 (四)二十一世紀に向かっての東京   160

終 章 ポスト・モダン都市――東京   167
 (一)二十一世紀に向けて   169
 (二)変わりゆく東京   176

 あとがき   185
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2006年11月17日

矢野誠一『エノケン・ロッパの時代』

エノケン・ロッパの時代 矢野誠一『エノケン・ロッパの時代』、岩波新書 新赤版751、東京: 岩波書店、2001/09/20。

 根っからのエンターテイナーであるエノケンと、自分がインテリであることを捨てきれないロッパ。対照的な二人の喜劇人が生き生きと描かれた作品。楽しく読んだ。

 芸能・芸能関係者と戦争とのかかわりはこれからよく検討していく必要があるだろう。総動員体制の下からの形成にそれ・彼らが果たした役割は小さくないと思われる。

[目次]
一 わがエノケン・ロッパ体験   1
   東京喜劇の象徴   2
   笑いの飢餓の時代に   11
二 ふたりの出発   29
   対照的な出自   30
   浅草に雄飛するエノケン   33
   千両役者の自負   45
三 浅草パラダイス   59
   浅草興行街という小宇宙   60
  「笑の王国」の誕生   76
四 丸の内アミューズメント・センター   87
   小林一三の夢   88
   ロッパの新天地   104
   松竹から東宝へ   118
五 戦争とエノケン・ロッパ   129
   戦時体制化のエノケン   130
   ふりまわされるロッパ   141
   敗戦前夜のふたり   156
六 喜劇役者の無念と悲惨   167
   ロッパの失意の日日   168
   苦悩するエノケン   187
   栄光の残影のなかで   197

 榎本健一・古川ロッパ 略年譜   203
 あとがき   209
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堀場清子『青鞜の時代──平塚らいてうと新しい女たち』

青鞜の時代―平塚らいてうと新しい女たち 堀場清子『青鞜の時代──平塚らいてうと新しい女たち』、岩波新書 新赤版15、東京: 岩波書店、1988/03/22。

 明治最末期から大正最初期にかけての『青鞜』に関わる女性群像。中心にいるのは平塚らいてう。男性上位が当たり前の時代に声を上げる女性たち。それから約100年。状況は変わっただろうか・・・?

 本書については文章がいいということを記しておきたい。とくに何かの効果を狙った文体ではなく、シンプルで論理構造がしっかりと見える、手堅い文章である。読みやすく理解しやすい。このことは非常に重要だと思う。

[目次]
1 元始女性は太陽であった   1
2 ニュー・ウーマンの誕生   11
3 スキャンダルの意味するもの   27
4 山の動く日来る   49
5 ノラ宣言の年   81
6 逆風をうける   121
7 自分は新しい女である   147
8 習俗打破!   185
9 性と愛――その争闘   217
10 青鞜挽歌   245
 あとがき   259
 付・青鞜参加者名簿
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2006年09月14日

佐藤卓己『メディア社会──現代を読み解く視点』

メディア社会―現代を読み解く視点 佐藤卓己『メディア社会──現代を読み解く視点』、新赤版1022、2006/06/20。

 本作は、日々のニュースを一般読者向けに、メディアと社会の研究者が読み解いた時事評論集で、2004年11月から1年間、『京都新聞』に連載されたものが中心となっている。

 メディアが社会で果たした役割についての論考が、当のメディア上で展開されるというのは、なかなか皮肉が効いていると感心する。本連載が、マス・メディアへ無意識的に信頼を寄せる市井の者が、「マス」と「メディア」をいくらかでも疑うことができるようになる機会となったのではないかという意味で、良い企画だと思う。

[目次]
  はじめに──メディア社会で「自然」に生きるとは
I 「メディア」を知る
 第1章 「メディア」とは何か   1
 第2章 「情報」とは何か   25
 第3章 メディアと「記憶」   53
II メディアの〈現在〉をどうみるか
 第4章 ジャーナリズムを取り巻く環境   83
 第5章 変わる「輿論」と世論調査   111
 第6章 メディア政治とドラマ選挙   133
III 変動するメディア社会
 第7章 メディアの文化変容   153
 第8章 テレビのゆくえ   173
 第9章 脱情報化社会に向けて   199
  あとがき   217
ラベル:メディア
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2006年06月14日

川崎賢子『宝塚というユートピア』

 川崎賢子『宝塚というユートピア』、岩波新書 新赤版940、東京: 岩波書店、2005。

 数多の角度から「宝塚」に切り込んだ作品という印象。そうであることによって、「宝塚」が一面的でない存在として描かれた。また、著者が宝塚をいかに好きか、よくわかった。

 「これこれこういう問題があるから、その問題について、こういった角度から検討する」という問題設定のようなものが、章、節などのまとまりのそれぞれにおいて明確にされなかったことは残念である。そのために、いろいろな視角からの数々の論考が、整理されずに積み上げられてしまったという印象を与える。
 本作品から、著者は博識であり、論点を豊富にお持ちであることを窺える。そうした豊富な論点を紙幅と読者(本作は新書である!)に合わせて、いくつかに整理して、それぞれの問題をはっきり提示し、それぞれの問題についてきっちり述べたなら、より読者に優しい作品になったのではないだろうか。

 本文中では、「伝統の創造」、「共同体」、「コード」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」、「オリエンタリズム」といった言葉が散見される。本書におけるこれらの用語は、私がこれまでに理解してきた指示内容とは、異なる内容を指示するものとして用いられているように感じた。
 私のこれまでの理解が一般的であるかわからないから、筆者の用法が誤っているということではない。しかし、こうした「術語」のような概念を用いる際には、少なくともある程度の基礎的な理解を共有しておく必要があるように思われる。
 したがって、本書においてこれらの用語が定義されることなく用いられたことについては、いささか問題があるように感じる。

 最後にいいと思った一文を引用する。
 最初に確認しなければならないのは、そこではまだ舞台の多元的な要素が未分化のまま混在していたということだ。帝劇オペラ、浅草オペラと宝塚との差別化をはかり、日本の「本格」オペラの選択すべきはそのいずれかと文化的ヘゲモニーを争う現代の批評の言説とは別に、帝劇から浅草へ、宝塚へと、東西に人材は勝手に移動し、離合集散をくりかえし、その交通と流動性が活力の源となりえた時代でもあったのだ。(p.38)


[目次]
  はじめに
第1章 文化としての宝塚 1
第2章 宝塚というジャンル 2
第3章 宝塚の越境と占領 67
第4章 ジェンダー/セクシュアリティという視角 115
第5章 宝塚というシステム 163
  おわりに 191
  主な参考文献 201
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2006年03月13日

坪井善明『ヴェトナム──「豊かさ」への夜明け』

 坪井善明『ヴェトナム──「豊かさ」への夜明け』、新赤版344、1994/7/20。

 ヴィェトナムといえば社会主義国で思い出すのはホー・チ・ミン。ホー・チ・ミンは独裁的だった等々・・・。それくらいしか私は知らなかった。つまり何も知らなかった。最近はそこそこ勉強したつもりだったのだが、こんなものである。お恥ずかしい。

 人のせいにするつもりはないが、私がヴィェトナムについて何も知らないのは、私がヴィェトナムを「観光」するために必要な情報を収集していただけだったために、ヴィェトナムの社会・政治体制について、あまり深く言及する書物を読んでこなかったからだろう。

 本書はそうした本とは異なり、共産党一党独裁による社会主義体制の形成と実情を、その内側から教えてくれる。当然のこと、ヴィェトナムとその周辺(昔は明確な国境などなかった)の歴史や、ヴィェトナムという地域に住む(ネイションではなくエスにシティとしての)諸「民族」については、基礎的な知識として最初に紹介される。

 ホー・チ・ミンについては、先に書いたとおり、私はあまり良いイメージをもっていなかった。しかし、本書で紹介されたホー・チ・ミンは大変に魅力的である。そして、どうやらいまでもヴィェトナムの人々(特に北部の)に敬愛されているらしい。こんどは、ホー・チ・ミンの評伝でも読んでみよう。

 安価で簡単に手に入れることの出来る本書は大変にありがたい作品であると思う。

[目次]
  はじめに
第1章 中国の影 1
第2章 南と西の隣人たち──チャンパ、カンボジア、ラオス 27
第3章 ヴェトナム社会 65
第4章 党と国家機構の特徴 101
第5章 ドイモイ政策 145
第6章 戦争の傷跡 183
第7章 経済発展の可能性 201
第8章 援助のあり方 237
  あとがき
  主要参考文献
  ヴェトナム史略年表
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2006年03月12日

日比野光敏『すしの歴史を訪ねる』

 日比野光敏『すしの歴史を訪ねる』、新赤版641、1999/10/20。

 「すし」と言われて思い出すのは握りずしだが、本書で握りずしについて述べられるのは第6章で、ページ数にして本書の5分の1程度である。これは握りずしの歴史がそれだけ短いということを表している。

 このことを逆に言えば、短い歴史しか持たない握りずしが、現在の日本の「すし」を席巻しているという意味で、その拡散の仕方が凄まじかったということを意味するだろう。そこには第二次世界大戦後の政府の政策「飲食営業緊急措置令」、つまり飲食店の営業を統制する法律がかかわっている。東京都のすし商組合は東京に掛け合い、すし屋が受け取る代金は、客がもってくる米一合とにぎり寿司一〇カンとを交換する際の「加工賃」と位置づけることを認めさせたのだという。これによって、全国ににぎり寿司が爆発的に広まったらしい(p.171)。

 それ以前の「すし」とはなんだったか。基本的には保存可能な「なれずし」のような発酵食品だったのが、少しずつ変化してきたもの、ということのようである。日本全国には、いまでもそのようなすしが残されている。有名なフナ寿司もそのひとつであるし、(魚ではなく)野菜のすしがあったりもするらしい。日本の「すし」はひとつではない、ということだ。

 個人的には、よく知った土地のなれずしが紹介されていて、そんなものがあったのか、と驚いた。面白かった。腹が空いた。

[目次]
  はじめに
1. 暮らしの中のすし──1
2. 古代日本のすし──25
3. ナマナレの世界──49
4. 変容するナマナレ──81
5. 早ずしの展開──117
6. 握りずしの時代──155
  おわりに──183
  参考文献──189
  本書でとりあげた各地のすし(地域別)
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鎌田慧『ドキュメント 屠場』

 鎌田慧『ドキュメント 屠場』、新赤版565、1998/6/22。

 BSEの問題が生じるまでは、何気なく食べていた大好きな肉。その「食肉」としての「生産」の過程の最後にある「屠場」の現実が描かれる。また、「屠場」の労働者たちの地位の向上を目的とする活動や、「屠場」労働者に対する差別的な視線の払拭への運動が、紹介される。

 本書中に紹介されている、ある屠場労働者の発言。
たしかに、屠場では「様々な物を生みだすところ」という意味で、「捨てる物のない活かす文化」を部落大衆や在日から引き継いだ素晴らしさがあると思います。しかし、それを「殺していることを否定する」ために持ちだしたり、相変わらず「生き物を殺すことはひどいこと」との意識の上で主張していたのでは、私たちへの差別も、畜犬センターにはたらく仲間や三味線に貼る皮をつくる仲間への差別もなくなるはずがないのです(p.153)
 「○○だから差別する」という場合の、「○○」を否定するのではなく、「差別する」という精神的な構造を問題化しないとならない、ということだ。

 筆者は次のように言う。
芝浦や横浜の労働者たちは、「屠場」の名称にこだわり、その場から意識の解放をめざしている。名称を変えたにしても、労働にたいする差別はなくなるものではない。労働そのものにたいする蔑視を変えていこう、との意志がこもっている。〔中略〕この本で、「屠場」と漢字で表記したのは、芝浦や横浜の労働者の主張に共鳴しているからである。わたしも書きかえなどによって差別の解消にむかうよりは、受け取る側の意識の変革をこそ追求すべきである、と思う。」(pp.230-1)
 私自身もこれに尽きると思う。

[目次]
日本一の食肉工場──東京・芝浦屠場 1
「職場の主人公は労働者だ」──横浜屠場 85
仕事師たちのゆくえ──大阪・南港市場 155
「自由化」という逆風のなかで──四国日本ハム争議 203
あとがき 227
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鶴見良行『バナナと日本人──フィリピン農園と食卓のあいだ』

 鶴見良行『バナナと日本人──フィリピン農園と食卓のあいだ』、黄版199、1982/8/20。

 『バナナと日本人』という本書の題名から、そこでは「日本人」が「バナナ」をいかに好きでどのように親しんできたかが述べられたり、こうして食べると美味しいというおすすめレシピや地方色豊かなバナナ料理が紹介されたりする、楽しげな内容が想像できないわけではない。しかし、本書では、むしろ、「日本人」が好きな「バナナ」がフィリピンにおいてどのような状況下で生産されているか、またそのような状況に至る歴史とはいかなるものか、ということが論じられる。大変に硬派な作品であり、岩波書店らしいといってもいいかもしれない。

 フィリピンで栽培されているバナナは、基本的に輸出用の作物である。現地の人の口には入らない。それは、もともとフィリピンにおいてバナナは輸出産品として、外国人の手によってその指導のもとで栽培されはじめたことによる。そこでは明治政府の植民政策が関係している。現在では米国系多国籍企業がその中心を占めている。

 筆者の記述から、フィリピンの農民が多国籍企業の搾取の対象になっており、彼らの仕事からかれらが疎外されているということを伺える。「それでは奴隷制ではないか」と言われても仕方がない現実がそこにはある。

 最近では、安くて軽んじられるような存在であるバナナだが、そのようなバナナがどのような状況下で栽培されてわれわれの口に届くのか、時には考えてみるべきなのかもしれない。そして、バナナだけがこの作品で述べられているような過酷な条件下でつくられているのでは、おそらくあるまい、と想像してみるのもいいかもしれない。

[目次]
1 バナナはどこから?──知られざる日・米・比の構図 1
2 植民地ミンダナオで──土地を奪った者、奪われた者 27
3 ダバオ麻農園の姿──経営・労働・技術 57
4 バナナ農園の出発──多国籍企業進出の陰に 85
5 多国籍企業の戦略は?──フィリピン資本との結びつき方 109
6 契約農家の「見えざる鎖」──ふくらみ続ける借金 135
7 農園で働く人びと──フェンスの内側を見る 165
8 日本へ、そして食卓へ──流通ルートに何が起ったか 193
9 つくる人びとを思いながら──平等なつながりのために 215
 あとがき 227

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《お知らせ》
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